社会や音楽etcについて
30年以上前は、大学入試に合格すれば、よほどの事が無い限り、卒業が保証されていた。企業が大学に期待したことは、入試で学生の優劣(現在ならば偏差値)を選別する機能であり、大学における知的教育には全く価値を置いていなかった。大学への入口における成績だけが評価された。何大学の何学部を卒業したかが評価対象であった。ブランドが人生の入口を決めていた。
この時代の大学はおおらかであった。試験で解答に窮したとき、何か別の課題あるいは自分が覚えてきたことを解答用紙に書けば、多くの場合、合格することできた。教授はゆったりと自分の研究に時間を割くことができ、学生も自分で考えて研究に向かうことができた。とにかく、時間は現在よりもずっとユックリと流れていた。
20年〜30年ほど前になると、日本企業は海外進出し、国際競争をするようになった。そうなると、海外のエリートとの競争に耐える人材が必要であることが、文部科学省の官僚にも理解された(と思う)。そこで、文部科学省が大学に、出口管理の強化、すなわち勉強しなかった学生を卒業させないことを要求するようになった。
そうした教育行政の浸透とともに、大学を標準の年数で卒業することができない、あるいは途中で退学する学生が増えて行った。メンタルな問題を抱える学生も年を追って増加。自殺者も増えた。今や、学生のメンタルケアは大学の重要な職務である。退学者数を入学者数で除した退学比率は駒澤大学の場合、5%〜10%くらい。
ドイツ・ハイデルベルグ大学の重粒子線治療装置 |
私が在職した駒澤大学・医療健康科学部では退学比率が10〜20%にもなる。その背景には、人命を預かる医療現場で働く人材のレベルを高く維持する厳しい教育方針がある。この教育方針のお陰で、卒業生は種々の病院において活躍している。意欲の高い学生は、ガンの放射線治療で重要な役割を果たす医学物理士を目指す。
そして、数年前から文部科学省は、退学比率を小さくせよ、ゼロを目指せと大学に要求する。ほんの少し前に、出口管理を厳格にせよと要求していたので、その要求に従った大学の現状を非難する。卒業できないレベルの学生には、彼らに見合った丁寧な教育(補修授業など)を要求する。
大学の方にも弱みがある。入学する学生数をできるだけ多くするために、能力が低い者も受け入れる。例えば、分数が理解できていない者も受け入れる。駒澤大学では、習熟度不十分(できない)な学生に対しては、入学前および入学後に特別教育を行う。この部分に予備校が参入。習熟度不十分な学生に対する初期教育での予備校の役割が大きくなりつつある。