Ongaku

良い演奏とは


音が美しい、滑らか(直線でなく曲線)、表現したいイメージがある。
音楽は言葉であり、対話である。
一つの音から次の音までの意味を考える。
自分独自のものを出す。
結果として、人を感動させること。
遅くても、ミスがあってもよい。
良い音楽は、例えミスがあっても聴く人にはミスが気にならない。
内容のない演奏では、やたらにミスが目立つのである。

 

自然と音楽

人間は人工的な空間よりも自然の中にいる方を気分が良いと感じる。自然の中では、風が吹き、様々な音が満ち、香りも漂う。これら要素は時間的に不規則に変化する。不規則とは言え、急激な変化よりもゆるやかな変化が心地よい。

風の吹き方に同じ繰り返しはない。従って、同じ音符が繰り返される部分を演奏するときは、弾き方(歌い方)に微妙な変化を付ける方が自然であり、そうあるべきである。
この微妙な変化、味付けは即興であり、一瞬、一瞬が次を決めてゆく。過ぎてゆく人生の瞬間の積み重ねになる。

 

建築と音楽

Wieskirche

音楽は建築と関係が深い。クラシック音楽を目指す人は、作曲家が生まれ育った風土を訪ねるばかりでなく、ゴシック、バロック、ロココ様式の建築にも目を向けるとよい。幸いなことに多くの古い建築が現存している。音符を滑らかに曲線で繋げて演奏することと、バロック、ロココの曲線で構成される空間とがアナロジーの関係である。音作りを連想するのに役立つはず。勿論、絵画は色彩感や濃淡のイメージから大いに関係がある。アールヌボーの装飾も関係ありそうだ。

 

 

右の写真は南ドイツ・バイエルンにあるヴィース教会の装飾


子供達の演奏

ピアノ独奏演奏会とピアノアンサンブル演奏会が隔年で、立派なホールを借りて行われている。小学生、中学生はつたないけれども本物の音楽を表現する。練習しないから、短い曲、有名な曲ならその一部だけとなる。ホールの備えられたシュタインウエイ・フルコンサート・ピアノの音色をしっかりと出すことができている。恐らく、プロよりも美しく感動を与えるのではないか。
逆に、音楽大学で音楽教育を受けた大人は偽物から本物に脱皮することができず、苦労する。

 

クラシック音楽

クラシック音楽の愛好者は沢山いるが、西洋で生まれたクラシック音楽を真に理解する人は非常に少ない。この状況は日本に限らず、ヨーロッパでも同じらしい。音楽をクラシック、ポピュラー、ジャズ、歌謡曲などのジャンルで区別することに意味はないが、ここではとりあえず、「音楽」という場合、クラシック音楽を指す。

多くの人が音楽演奏を聴いて、優れた演奏と評価する要素が3つある。

より速く、より強く(大きな音)、より正確に

 

オリンピックゲームのスポーツと勘違いしてはいけません。上記の3要素を満たす演奏に対し、大衆は拍手喝采する。女性音楽家が美人であれば効果は倍増する。そのような演奏が期待されるコンサートのチケットは完売となる。コンサートは営業的に成功する。

演奏者は作曲家の作品を楽譜から深く読み取り、自分の解釈でイメージを作り、それを再現して観客に伝達する。特に、心の表現、感情表現が大切である。大変高度で緻密である。技術はその再現のためにあるものであるが、現在は技術のためにのみ技術が要求される。

 

音楽ファンが100人いると、その中の5人が本物を理解し、残りの95人は本物が分からず、上記の3要素で判断する。プロならば音楽を理解していると思いたいが、現実はダメ。プロの音楽家、音楽大学卒業者の批評家でも、ほとんどが「音楽とは何か」を理解していない。

 

プロといえどもコンサートを実行することは大変であり、2時間のプログラムを暗譜で演奏しなければならない。量をこなしているうちに質よりも量が重要となり、音楽を考える余裕は消し飛んでしまう。音楽家の大多数は惰性で仕事をこなすことになる。全曲を完全な演奏ができなくても、ハットするような素晴らしい部分が欲しいが、プロのコンサートにはそのような瞬間が生まれない。

 

プロとは逆に、アマチュアが本物をつかんでいることが多いようだ。アマチュアは、音楽が好きで、何かを表現したいと言う意志があって、演奏をする。彼らは自分の演奏を進化させるために、他人の演奏を聴き比べ、他人の参考意見にも耳を傾ける。



Ongaku