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「集団的自衛権」について思う

2014.5.29

 

安倍政権は従来の憲法解釈を変更することによって「集団的自衛権」を持つことを目指している。しかも、閣議決定で「集団的自衛権」を決めようとしている。これは、憲法が日本国の最上位かつ根幹の約束であるという体制を覆す行動である。

 

憲法とは

憲法は国(政府、国家公務員、地方公務員など公的な機関)が守るべき約束である。他方、国民が守るべき約束が法律である。今般の「集団的自衛権」問題では、内閣が憲法の制約を受けることなく、国の方針を決めようとしている。

 

この議論では、憲法の上に内閣が位置することになり、立憲政治の根幹が揺らいでいる。もし、国が憲法の条文と異なる政策を希望するならば、憲法を改正することが本筋である。解釈で如何様にもなる憲法は憲法ではない。

 

憲法の条文の解釈は唯一でなければならない。幾通りにも解釈できる条文は不完全と言える。解釈の変更を重ねる思考様式は日本的なものであり、グローバル社会では通用しない。

 

各論に陥る議論

「集団的自衛権」をなんとかして認めさせるために、安陪政権は本筋の議論を避け、その代わりに具体的な事例を掲げて行使容認を迫った。すなわち、各論の議論である。

 

会議などで議論をする際、議題の大枠を議論することよりも各論の議論に熱心になることが多い。全体を見渡す議論よりも、些細な部分に誤りをみつけ、指摘する。細部を議論することで、課題を議論した気分に浸る。

 

国会審議を見ていると、根幹の総論ではなく、集団的自衛権を行使するかもしれない事例の細部という各論に陥っている。

 

安倍政権が2014.5.27に示した15事例は単なる想定例である。有りそうでなさそうな、なさそうで有りそうな事例である。こうした事例ならば、幾つでも想定することが可能であろう。あり得る、否、あり得ない、といった議論に陥ることを心配する。

 

外交センスを磨け

安陪総理は2013年12月に靖国神社を参拝した。靖国神社には太平洋戦争に重大な責任を負っていたA級戦犯が一般の戦没者と共に合祀されている。この合祀が物事の理解をあいまいにしている。政治家が参拝するとき、自分は一般戦没者のために参拝したと言い訳する。しかし、中国、韓国などの人々は納得しない。なぜ彼らが納得しないのかを想像することができない政治家は外交センスがないとしか言いようがない。


いわゆる「歴史認識」の問題である。日本と似通った経歴はドイツにもある。しかし、ドイツでは歴代の大統領、首相がナチス幹部の墓に花を供えることはなかった。あり得ない話である。ナチスが犯した戦争、ホロコーストに対する総括・反省がしっかりとされ、償いの意志は現在も感じることができる。ネオナチなどの例外があるが。

 

侵略された国は公式にドイツを批判することはない。ただし、ドイツ人を嫌う民衆が多いようであるが、ドイツ人に対して直接それを言うことはない。私がドイツに滞在したとき、一緒に研究を行ったイタリアの友人ですら、「ドイツ人は嫌いだ」と私に述べたことがある。

 

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