2011年3月11日、東北地方の太平洋沖でM9.0の巨大地震が発生した。女川原子力発電所は震源地に近く、地震の揺れ加速度は大きかった。地震に伴って、高さ13mの津波が女川を襲った。この津波は福島第1原子力発電所を襲った高さ14mとほぼ同じである。
女川原子力発電所では起動中の2号機原子炉は地震直後に停止し、稼働中の1号機と3号機の原子炉は3月12日未明に冷温停止した。すなわち、女川と福島第1の間に非常に大きな明暗が生まれた。その理由を考えてみたい。見方を変えれば、福島第1と女川の違いから福島第1がレベル7の原子力事故に至った原因の一端が明らかになるはずである。
女川原子力発電所が地震・津波の襲来から何とか耐え、生き残ることができた背景には以下の3要素があった。
女川原子力発電所は石巻市の中心から東南東17kmのリアス式海岸に位置する。 |
福島第1原子力発電所の事故原因が議論される中で、869年の貞観地震が話題として登場した。これは、2011年3月の少し前の時期に地震の影響を検討する委員会で貞観地震が採り上げられたと報道された。そのため、私は貞観地震についての知見は極めて最近のことと解釈していた。その結果、東京電力の関係者が新しい知見を原子力発電所の安全対策に直ぐに盛り込むことは難しかっただろうと考えた。しかし、女川原子力発電所を調べる中で、貞観地震の存在が、関係者の間では、かなり昔から知られていたことを知った。
参考資料1の中で平井弥之助氏の勇気ある行動が解説されている。女川原子力発電所は福島第1原子力発電所よりも後の時代に建設された。それにしても、設計は今から40年ほど前のことである。今から40年前の時点で、東北電力の人々は貞観地震で発生した津波のことを調べていた。平井氏は他の人達が想定した津波の高さよりも高い津波に備えることを強く主張し、自分の意見を実現させた。その結果、女川では主要施設が標高14.8mに建設された。
巨大地震、巨大津波を想像する柔軟な思考、信念を曲げずに他を説得する情熱・説得力を備えた人材が存在したことを忘れてはならない。
下の表1を見ていただきたい。地震の際に女川原子力発電所が受けた揺れの強さを表す最大加速度が、1号機では540ガル、2号機では607ガル、3号機では573ガルであった。これらの数値は想定されていた加速度を1〜12%超えている。福島第1原子力発電所の1〜6号機で記録された最大加速度よりも大きな値である。女川の建物被害についての詳しい情報はないが、重油タンクの倒壊、20箇所におよぶ水漏れなどが発生した。
女川では津波の想定されていた高さは13mであった。既に述べたとおり、主要施設の標高は14.8mとして設計されていた。そのままであれば、13mの津波が襲来しても14.8-13=1.8と1.8mの余裕があったはず。しかし、地震発生によって女川の地盤が1mも沈下した。その結果、実際の余裕 高さは0.8mに減少していたが、津波を凌ぐことができた。
女川では津波の引き波による海面の低下を考慮して原子炉冷却水の取水口が設計されていた。それにも関わらず、最大の津波の後に発生した強い引き波によって海面が下がったとき、短時間ではあるが海面が原子炉冷却用の取水口よりも低くなっていた可能性が指摘されている。
原子炉施設の敷地が海面から14.8mの高さに、冷却水取水口は海面下7.4mに設計されている。 この図は参考資料2のスライドから転記。 |
三陸地方は過去に何度も津波の被害を受けていたため、津波の怖さを多くの人々が共有していたと思われる。三陸地方の人々にとって津波は常識であろう。それであっても、2011年3月11日の津波は過去100年の言い伝えを超えた規模であったため、多くの人々が犠牲となった。
参考資料2は東北電力の松本康男氏が講演した「女川原子力発電所における津波に対する安全評価と防災対策」のスライドである。これを見ると、東北電力の方々が津波に関する考古学的調査や津波の数値シミュレーションなどに真面目に取り組んでいたことを理解することができる。東北に生まれ育った人が、原子力発電所が立地する東北の地域の安全環境を守ることを自分達の問題として捉えていたと想像することができる。怖い津波から原子力発電所を守るために最善を尽くすという意志を読み取ることができる。
東北電力の関係者は津波の歴史や津波の怖さを何となく心の奥で理解していたと想像する。そうした背景があったからこそ、平井氏が主張した津波対策の強化を最終的には人々が認めたのであろう。
女川原子力発電所では2系統あった外部交流電源の1系統が生き残った。これは大変幸運なことである。それでも、1号機では、地震直後にタービン建屋で火災が発生した。恐らくこの火災が原因で変圧器が故障し、電源復旧までの11時間は非常用ディーゼル発電機によって原子炉の冷却が行われた。
2号機と3号機には外部電力が供給されていたので、原子炉冷却が順調に行われ、運転制御室も正常に機能した。運転制御室が正常であることは原子炉の状態を把握するために非常に重要である。1号機の運転制御室に電力が供給され、正常な機能が確保されていたかどうかは明らかでないが、断片的な情報から想像するに、原子炉の状態を把握することが正常に行われたようである。
他方、福島第1原子力発電所では、6系統もあった外部電源の全てが遮断された。その結果、運転制御室は停電し、中は真っ暗。原子炉の状態を読み取ることが難しかった。原子炉の中で何が起きているのか、炉内がどうなっているかを把握することが非常に困難であった。結果として、緊急対応をすることも非常に困難であった。
福島第1原子力発電所が何故メルトダウンに至る事故にとなったのかを考えてみた。
東京電力の福島第1および第2原子力発電所は地元の東京圏になく、東京から200km以上も離れた場所に立地している。多分、東京電力の原子力発電所の計画・建設に参加した人の大部分は東北地方と関係がなく、東北からみればよそ者であった。そのため、津波に関する畏怖がなく、立地する地域に原子力災害が及ぶ可能性を想像することができなかった。仕事のときだけ福島に赴き、任務が終われば東京に帰り、現地への愛着が薄かったのではないか。計画・建設に携わった東京電力社員のうちの何人が定年退職後に原子力発電所の近くに終の棲家を構えたのであろうか。
津波に対する畏怖がないこと、巨大な津波を想像することができなかったことが津波に対する備えが甘くなったことの背景と思う。自分が住む地域ではないため、防災に対する想定が甘くなったのではないか。
女川原子力発電所には原子炉が3基あり、そのうちの2基が稼働中であった。非常に大きな揺れが発生したとき非常時に対処すべき基数が少なく、外部電力も生きていた。しかも建屋などの損傷の程度が小さかった。そのため、パニックに陥ることなく冷温停止への対応をすることができた。
他方、福島第1原子力発電所には6基の原子炉があり、全ての外部電源を喪失した結果、運転制御室は全て停電。6基の原子炉に、それぞれ異なる対処を暗闇の中で行うことは大変である。非常事態への対処は原子炉の基数が増えるにつれて指数関数的に難しくなるのではないかと想像する。その意味で、1カ所の発電所サイトに6基も建設したことが大きなマイナス要因であった。その過密なサイトに更に原子炉を増設する計画があったことは想像力の欠如としか言いようがない。
東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)に襲われた原子力発電所サイトに設置されていた原子炉の基数は次のとおり。
福島第1 6基
福島第2 4基
女川 3基
東海第2 1基
各発電所サイトで非常事態が発生したことを、高速道路において走行中の車が、それぞれ6台、4台、3台、1台が交通事故に巻き込まれた状況に例えてみる。 女川は車3台が巻き込まれた事故であり、福島第1は車6台が巻き込まれた事故となる。事故に関与する車の台数が増えると、事故処理は飛躍的に複雑で大変になる。福島第1の原子炉数は女川の2倍であった。このことは、事故処理の作業が2倍に増えるのではなく、4倍にも、あるいは8倍にも増え、かつ複雑さも拡大するはずである。
女川原子力発電所は計画段階で、地震・津波から原子炉を護る対策を施していた。そうした対策があったお陰で重大事故を免れることができた。さらに震災から避難してきた被災者を臨機応変な措置によって受け入れた。これらの地域を思う心があったことによって女川原子力発電所は地元の支持を受けることができるのではないかと想像する。
女川は再稼働を受け入れてもらうことができる唯一の原子力発電所かもしれない。
種々の報道や報告に出ている断片的な情報をつなぎ合わせたものであり、事実と異なる部分があることをご容赦ください。
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女川原子力発電所 |
福島第1原子力発電所 |
原子炉の基数 |
3 |
6 |
襲来した津波の高さ |
13m |
14m |
津波の想定高さ |
9.1m |
5.7m |
主要施設の標高 |
14.8m |
約10m |
地盤の沈下量 |
1m |
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津波に対する余裕高さ |
14.8-13-1=0.8m |
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地震の最大加速度(ガル)
(参考資料5) |
1号機 540 (532) |
1号機 460 2号機 550 3号機 507 4号機 319 5号機 548 6号機 444 |
外部電源 |
2系統の内1系統が生き残った |
6系統を全て喪失した |
原子炉制御室の状況 |
電源が供給され、原子炉の計測データを読むことができた |
停電のため、原子炉の計測データを読むことが非常に困難であった |
トラブル |
1号機では、地震直後にタービン建屋地下1階で火災が発生し、高圧電源盤(A母線)が損傷。変圧器が故障したため外部電源が使用できなくなる。外部電源復旧までの11時間を非常用ディーゼル発電機で賄った。火災は12日22時55分に鎮火。 |
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トラブル |
海に最も近い2号機では地下が浸水し、非常用発電機3台のうち2台が起動しなかった |
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トラブル |
1号機ではボイラー用重油タンクが倒壊 |
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冷温停止 |
2号機は起動中であり地震直後に停止 3号機は3月12日1:17に冷温停止 |
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その他 |
自主的に避難してきた約360名の被災者を体育館などに収容 |
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その他 |
最大津波から15分後に大きな引き波を記録。海水面が下がりすぎ、冷却水の取水口が3〜5分間むき出しになった可能性あり。 |
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その他 |
4月7日に発生した震度6強の余震では、外部電源5回線のうち3回線が遮断、1回線が点検中、残る1回線で冷却機能を維持した。非常用ディーゼル発電機1台が故障 |
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1号機 |
2号機 |
3号機 |
2011.3.11の状態 |
稼働中 |
起動中 |
稼働中 |
電気出力(万kW) |
52.4 |
82.5 |
82.5 |
営業運転開始 |
1984/6 |
1995/7 |
2002/1 |
原子炉形式 |
BWR-4 |
BWR-5 |
BWR-5 |
格納容器形式 |
マーク1 |
マーク1改良 |
マーク1改良 |
炉心燃料集合体(本) |
368 |
560 |
560 |
「http://security.slashdot.jp/story/12/04/04/0042224/平井弥之助氏、女川原発を津波から守った1人の男性から学べること」からの転記
宮城県石巻市の女川原発は、福島第一原発と同じく東北の太平洋沿岸に立地し、東日本大震災では高さ 13 メートルの大津波に襲われたにも関わらず、福島第一原発のような事態に陥る事はなかった。津波から女川原発を守ったのは 1986 年に亡くなった元東北電力副社長、平井弥之助氏であったという (本家 /. 記事、The Mainichi DailyNews の記事、毎日 jp 記事より) 。
869 年の貞観大津波を詳しく調べていた平井氏は、女川原発の設計段階で防波堤の高さは「12 メートルで充分」とする多数の意見に対して、たった 1 人で「14.8 メートル」を主張し続けていたとのこと。最終的には平井氏の執念が勝り 14.8 メートルの防波堤が採用されることとなったが、40 年後に高さ 13 メートル津波が襲来することになるとは。氏はさらに、引き波による水位低下も見越していたとのことで、取水路は冷却水が残るよう設計されていた。
「決められた基準」を超えて「企業の社会的責任」「企業倫理」を追求しつづけた平井氏の姿勢に敬服する。
講演スライド
http://www.jnes.go.jp/content/000015486.pdf
「女川原子力発電所における津波に対する安全評価と防災対策」
東北電力株式会社 松本康男氏 (pdf)
「東北地方太平洋沖地震における福島第一原子力発電所及び福島第 二原子力発電所の地震観測記録について」 原子力安全・保安院 2011.4.1
http://www.meti.go.jp/press/2011/04/20110401013/20110401013.pdf
加速度ガルの単位は0.01m/s^2。通常の重力加速度gは980ガル。2011年3月11日の地震で女川原子力発電所が受けた加速度は約0.5g、すなわち重力加速度の約1/2の揺れであった。
なお、地震による世界最大の加速度は、岩手・宮城内陸地震(2008年6月14日)の際に岩手県一関市で観測された4022ガルとのこと。